ここ小松で40数年にわたり教育活動を行ってきた、近藤篤山。
 篤山の日誌には、篤山が亡くなる直前まで書き記した日々の記録がこと細かく記されています。
 篤山はこうした人々のため、、藩校とは別に寮を併設した私塾「緑竹舎」を設立、門弟の指導にあたります。
 武士だけでなく、領内の農民や商人にも篤山は、教育の機会を与えました。
 「養正館」を領民に開放したり、領内の誰にでも道徳の大切さを説いたりしました。
  さらに、篤山の教えは、それまで対象にされていなかった女子にも及び、その結果 小松藩の道徳は伊予随一と認められていきました。
 学問の道に生涯を捧げた近藤篤山。教育への姿勢は一つの信念のもと、貫かれていきました。
 「立志」とは、その名の通り「志を立てること」
 学問とは、人が生まれながらに持つ清らかな心をさらに磨き上げることだと篤山は考えていました。
 高い理想を掲げ、努力すればすばらしい力が必ずでてくる。
 少しのことで満足しないで、その道の第1人者を目指しなさい。それが篤山のいう「立志」であり、その教育に対する姿勢は今も脈々と受け継がれています。
 若き日より、ひたすら学問にいそしみ、篤学を修めて後、小松藩の儒学者として藩内子弟の教育に尽力した近藤篤山。
 その私邸の書斎は、さまざまな思いを込められ、こうして史跡「近藤篤山旧邸」として一般 に公開され、伊予聖人の生活を今に伝えています。



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